帝政ロシア軍のタシケント侵攻 (150周年)
今年はウズベキスタンの歴史にとって節目の年。
150年前の出来事が、今でもずっと影響し続けている。
当時の中央アジアでは、イギリスとロシアが支配地域を争っていた。
↓
グレート・ゲーム - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B0%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%BB%E3%82%B2%E3%83%BC%E3%83%A0
中央アジアの覇権を巡るイギリス帝国とロシア帝国の敵対関係・戦略的抗争を指す。中央アジアをめぐる情報戦をチェスになぞらえてつけられた名称。
ブハラ、ヒヴァ、メルブ遺跡、タシュケントという都市は、事実上外部からはどちらのものか分からなかった。
帝政ロシアの拡張は、インド亜大陸を占領し優勢を誇るイギリスと衝突する脅威になったので、中央アジア全体で両大帝国は探検、情報活動、帝国主義的外交の微妙なゲームを行った。
そして1865年6月、ロシア軍がタシケントを陥落させた。
↓
Завоевание Ташкента Российской империей - Википедия
その頃のロシア皇帝は、この人。
↓
アレクサンドル2世 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AC%E3%82%AF%E3%82%B5%E3%83%B3%E3%83%89%E3%83%AB2%E4%B8%96
[中央アジア]
アレクサンドルの治世には中央アジアへの本格的な進出や開発も始まった。
トルキスタン地方ではブハラ・ハン国(1868年)、ヒヴァ・ハン国(1873年)を次々に保護下におき、1876年にコーカンド・ハン国を滅ぼすと、この地域でもロシア化政策と経済開発が推し進められた。
この地域は綿花栽培および綿工業の中心地となり、モノカルチャー化が進んでいった。
1867年には、タシケントにトルキスタン総督府が置かれ、ロシアによる中央アジアの植民地支配の拠点となった。
↓
トルキスタン総督府 - Wikipedia
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%88%E3%83%AB%E3%82%AD%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%83%B3%E7%B7%8F%E7%9D%A3%E5%BA%9C
| 固定リンク

コメント